ドイツの歴史を生き抜いた ビートル
こんにちは。
国民車構想(フォルクスワーゲン)の計画
基本性能=圧倒的コンセプト
敗戦後、本格的な生産の始まり
コンセプト、完成度の高さゆえ 初代モデルを超えられないジレンマも…
さとる号ゴルフ君と遊んだり、美味しいもの食べたり、読書したりと、やりたい事が多すぎて、12月が秒速で終わってしまいそうなさとるです。
ゴルフ1型の誕生が1974年。その前進と言われるビートル。
↑タイプ1
引用 wikipedia
フォルクスワーゲンビートルがどのような歴史の中誕生し、全世界にその存在をが認められるまでを追ってみます。
参考にさせていただいたのは、
フォルクスワーゲンゴルフ4/5/6 (SAN-EI MOOK Owner's Book Series 3) (SAN-EI MOOK Owner’s Book Series 3)
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「1933年ドイツ首相に就任したヒトラーがベルリン自動車ショーの席上で、
引用 wikipedia
個人的なイメージですが、ヒトラー=ドイツ冷徹な独裁者…。
実際のところは、国の成長を支える産業、その産業を担う労働力をいかに高めるか?というねらいで、「労働者の家族が長距離ドライブを楽しめるクルマ」を求めていたようです。
国民の支持をとりつけるために、ビートルを作ろうと画策したということか…。さすが歴史に名を残す政治家!
「1934年ドイツ自動車産業連盟が、この国民車構想の設計、試作をフェルディナント・ポルシェの設計事務所に発注。試作車のテストを経て、1938年に正式に承認され歓喜力行団※のクルマ
=Kdfワーゲンと名付けられ、量産が決定された。
これがフォルクスワーゲンタイプ1、ビートルの長い物語の始まりである」
※歓喜力行団(ナチスドイツ政権の下部組織)
「1937年に国策会社として、
〈求められた性能〉
「つまりKdfワーゲンは、価格的にはまさに国民車のイメージそのものと言えたが、要求性能はこの時代の車には実現不可能なほど高い高性能車だったのである。」
しかし、第2世界対戦敗戦後、ドイツはイギリス軍など連合軍の管理下におかれ、生産設備解体やイギリスへと譲渡などが計画される。しかしこれは途中で頓挫する。
1946年に計画の見直しが図られ、イギリス軍は、フォルクスワーゲンを20000台を発注、月産1000台に達した。この時期に、Kdfワーゲンは、
フォルクスワーゲンタイプ1に改名されている。
「順調に生産され、市場で高い評価を得たフォルクスワーゲンタイプ1は、
1947年にはオランダに輸出、49年にはアメリカ市場にも輸出され、ビートルという、ニックネームまでつけられる独特の存在となる」
ドイツ民族資本としてのフォルクスワーゲン製造会社が確立された」
「1950年にはタイプ1のプラットフォームを利用した
ワンボックスバン型トランスポーター
タイプ2が発売」
↑タイプ2
引用 wikipedia
↑フォードT型
引用 wikipedia
「1934年に構想設計されたフォルクスワーゲンタイプ1、すなわちビートルは、なんと69年間も命脈を保ち、
1945年以来58年間も作り続けられ販売され続けた。この事実は、脅威そのものでありこれこそ本物の単一ブランドも力ということができる」
「しかしながら、フォルクスワーゲンとしてはタイプ1に変わる次世代のモデルが求められていたにもかかわらず、タイプ3、タイプ4、K70のいずれも成功しなかった…」
↑タイプ3
引用 wikipedia
↑タイプ4
↑フォルクスワーゲンK70
引用 wikipedia
まとめ
国民の生活を豊かにしたい! 国が主導したドイツの車作りの歴史「戦争直前に政府の政策により誕生したフォルクスワーゲンが、歴史の長い民族系メーカーと一体化し、
以後はヨーロッパ最大の自動車メーカーへと規模を、拡大させる原動力となった」
以上、フォルクスワーゲンの歴史をまとめてみました。
フォルクスワーゲン ゴルフを見習った車作りの話をよく耳にしますが、やはりそれだけのポテンシャルがなければ、模倣したり、参考にする対象にはなりえません。
ヒトラー先生が国民のためにとビートルを開発。その「本気度」で圧倒的なクオリティを実現。そんな流れの中生み出されたゴルフのポテンシャルは?もうこの答えは言わずもがなでしょう。
ゴルフ5を一生大事にする!wと同時にますますその魅力を掘り下げたくなりました‼︎
次回、